2015年4月12日日曜日

「悲しみを喜びに変える神」ヨハネによる福音書 16:16-24

わたくしたちにとりまして、何でも臆せずに話せる相手がいるというのは、大きな喜びです。信頼し、心を委ねることのできる相手がいる。自分の良いところだけでなく、欠けたところも知っている。さらには自分がまだ知らない自分についても、もう知っており、それを承知で受け入れてくれている。また、相手も自分のことを信頼してくれている。そのような相手と再び会い、この相手の前に立つことは、他の何によっても得られない喜びです。

わたくしたちと天の父なる神さまとの関係というのはそのように与えられています。主イエスは「わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言い、このことを証しておられます。

わたくしたちにも、洗礼の喜び、神さまの御前に立つ喜びが与えられます。この喜びは、ちょうど「一人の人間が世に生まれ出た喜び」のように、神さまとの関係によって新しい命が芽生えた喜びとしてわたくしたちに備えられています。この新しい命の喜びは、復活の喜び、わたくしたちのこの身が復活させられるという喜びをもって完成させられます。そこにおいては、思い煩いも悩みも、欠けや弱さもない。全てに勝利された神さまの計らいによって新しい命の喜びに満たされます。この喜びを奪い去る者はいない。父なる神さまとわたくしたちとの関係を奪い去る者はいません。

わたくしたちの地上の歩みは、この終わりの日の完成へと向かうべく途上の歩みとして与えられています。世にあっては、このわたくしたちの喜びをまだ喜べないでいる者たちとの関わりがあります。そこにおいて悲しみ、苦しみも経験します。主イエスがおられないのではないか、この方との関係がそこにはないのではないかと見えるからです。けれども、主イエスはこれが産みの苦しみだと言います。産みの苦しみをへて与えられる、命の喜びがあると言うのです。そこに主イエス・キリストがおられるからです。

この喜びをわたくしたちへと届けるべく、産みの苦しみをへてわたくしたちのところにまで、主イエス・キリストの十字架の死と死者の中からの復活とが、宣べ伝えられてきました。わたくしたちが礼拝に迎えられ、神さまの御前に立つ新しい命の喜びにあることを、産みの苦しみをへて喜んでいる先人たちがいます。そしてわたくしたちも、より多くの者と共に喜びをいただく者とされています。主イエス・キリストがわたくしたちの歩みと共におられるからです。