2015年3月15日日曜日

「この身を立ち上がらせる方」ヨハネによる福音書 14:15-31

主イエスは言いました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。父・子・聖霊なる三位一体の神さまの第三位格である聖霊について、主イエスは弁護者(パラクレートス)と言う言い方をなさいました。このパラクレートスというギリシャ語は日本語にしにくい言葉と言われます。以前の訳では「助け主」、「慰むる者」とありました。そちらが自分の心に届く、という方もおられることでしょう。ですが、主イエスがここでお語りになった聖霊が、どのようにわたくしたちに働いておられるのか、弁護者という表現はよく表しています。

「弁護者」という言い方は裁判の場面を思い起こさせます。そこで裁かれているのは他でもない自分です。ここでの裁きとは、神さまの前の裁きです。神さまの前にあって、わたくしたちはとても立つことができません。一人でそんな所に行くことなどできません。行けば死んでしまいます。自分が裁きに耐え得ない者であることを、およそわたくしたちは知っているからです。

けれども、その自分の傍らに立って、自分を助けてくれる弁護者がいるのです。立ち得ないはずのわたくしたちを神さまの前に立ち上がらせてくださる弁護者として、主イエスはご自身とは別の弁護者を、聖霊を、お遣わしくださいます。わたくしたちもこの弁護者なる聖霊によって、神さまの前に立ち立ち上がらされ、命を得るのです。

また、地上の歩みを見渡しても、裁きとは言いませんが、進路や病、死という自分との関係において、また、共に生きる者たちとの関係において、面と向かって立つことの難しい課題をわたくしたちは負います。直に対面したらとても立てそうにないので、面と向かうことを避けることもあるでしょう。自分との関係も、たとえば自分の死についても、面と向かわずに済ませられるのなら、そうしたいと願うのではないでしょうか。ただ、わたくしたちには避けて通れない道です。その避けて通れない道を伴ってくださり、わたくしたちが自らの現実に対して両足でしっかりと立ち上がって行くために、聖霊が共におられます。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」。

神さまの恵みはいつも先立って、わたくしたちへと届けられます。十字架の死に御子イエスを差し出された神さまは、聖霊をわたくしたちに与えて御子の復活を示し、「わたしの愛する子よ」と呼び掛け、御自身の懐にわたくしたちを抱き寄せておられます。