2015年2月15日日曜日

「世を救うために来た御子」ヨハネによる福音書 12:36b-50

主イエスは「父の命令は永遠の命である」と言います。わたくしたちの命を造った神さまは、わたくしたちを永遠の命に生かそうと、わたくしたちに命を与えました。そしてわたくしたちが死で終わる生ではなく、死んで多くの実りを結ぶ一粒の麦として(24)永遠の命に至るために、主イエスはご自身が遣わされて来たと言います。

これは意外なことです。世の常識は死が全ての終わりであり、死をもってわたくしたちの命は滅びるとおよそわたくしたちは心に思っているからです。主イエスはそのわたくしたちの心を、造り主なる神さまとの関係へと向けさせます。

わたくしたちは誰ひとりとして、自分勝手に生まれてきたわけではありません。自分で自分の命を造り出したのではないのです。そうであれば、誰かが自分の命を造ったからこそ、この自分がいるのでありましょう。聖書はそれが天地万物の造り主である神さまだと証します。わたくしたちの父母はわたくしたちの誕生のため神さまによって掛け替えのないものとして用いられたのです。

この神さまがわたくしたちをお造りになった思いは永遠の命に生きることにある、と主イエスは言います。そうであるならば、もしわたくしたちが死で全て終わる命を生きると、それはわたくしたちの命を造った神さまの思いに添わないままになります。神さまとわたくしたちとの関係は損なったままになる。主イエスは言います。「わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く」。

けれどもそのわたくしたちを、造り主とのまことの関係に回復させるために、主イエス・キリストは十字架で命をささげてくださったのでした。そして、神さまが死者の中から復活させた主イエスは言うのです。「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」。

ヨハネによる福音書は、この主イエスの復活において、主イエスが受けた栄光が明らかにされた、と証します。主イエスがお受けになった栄光、それは十字架の死に独り子を差し出してまで世をお救いになろうとされた神さまの、わたくしたちへの思いです。永遠の命を得させるという造り主の命令を全うするために、主イエスは世に与えられ、十字架において、神の栄光をお受けになりました。その栄光が、復活を告げ知らされたわたくしたちにも及ぼされているのです。