2015年2月1日日曜日

「光の子となるために」ヨハネによる福音書 12:27-36

主イエスはわたくしたちが光の子となるため、世に来られました。わたくしたちが光の子となって、神さまの言葉によって命を得て生かされることを、わたくしたちの造り主なる神さまが願っておられるからです。光の子は光を浴び続けます。光に照らされ、光に満たされ、光の中を生かされます。わたくしたちが神さまの言葉に照らされ、満たされ、生かされるよう、主イエスは世に来られたのでした。

その主イエスも、これから暗闇の中を歩まれます。この週の金曜日には主イエスは十字架で殺されてしまう、苦難の歩みをこれから進まれるのです。主イエスは世からののしられ、さげすまれ、ただひとり捨てられて、十字架で死んでゆかれました。その苦難の歩みを支配していたのは、主イエスに死をもたらす人間の言葉です。死という闇に埋没させる人間の言葉を浴びながら、主イエスは十字架へと引き渡され、死んでゆかれたのでした。

その主イエスに、天の父なる神さまの声が聞こえたと福音書は伝えます。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という声が天から聞こえた、と(27)。たしかに主イエスはこの方を死へと到らせる人間の言葉によって覆われ、十字架で殺されます。けれどもその主イエスに天の父なる神さまは再び栄光を現そうと言う。そして神さまは、十字架で死んだ主イエスを復活させて、人間に命をもたらす神の言葉を、復活させられた主イエスによって輝かせられました。この光で神さまは世を覆い尽くすのです。

わたくしたちは、何の言葉によって生きているでしょうか。ときにわたくしたちは、自分が言ってしまった言葉や、人に言われた言葉によって、闇の中に閉じ込められたようになっていることがあります。それも、昔に言われた言葉、ずっと前に言ってしまった言葉に引きずられていることがあります。そこから抜け出したと思っていても、ふとしたことからまた「あの言葉」に舞い戻り、囚われてしまう。

そのわたくしたちに主イエスは言います。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。主イエスはわたくしたちの闇を共に負って、十字架で死んでくださると言うのです。その死んだ主イエスに現された神の栄光に包まれて生きるように、と。わたくしたちを死んでも生かす神の言葉が主イエス・キリストによって与えられました。わたくしたちが聞き続けるべき言葉はここにあります。この言葉を浴びて、全て満たされて、光の子としてわたくしたちも歩ませて頂けるのです。