2014年6月15日日曜日

「私をいかす神の喜び」ヨハネによる福音書 6:1-15

神さまが喜んでおられるのは、わたくしたちを永遠の命に生かすことです。わたくしたちの命をお造りになった神さまは、この命を喜んでおられ、死を越えて永遠の命に生かすことを願っておられる。

そのように神さまがわたくしたちを御覧になっていることへとわたくしたちの目を引き上げようと主イエスはフィリポに問いかけました。神さまがわたくしたちをどれほど豊かに用いようとしておられるのか、ここで示そうとされるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。

フィリポの見積もりは、人々の目におかしなものではありませんでした。主イエスと共にそこに座った男たちはおよそ五千人でした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。

もう一人の弟子アンデレは、役に立たないと見えた少年をこの議論にわざわざ登場させて、価値のないものと見積もります。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」。

アンデレの話の進め方はともかくとして、これらの見積もりはわたくしたちの地上の価値判断として特別なものではありません。また、そのような地上の判断をわたくしたちが常日頃行っていることを、主イエスも非難していません。主イエスは、わたくしたちの地上の見積もりをはるかに越えて、わたくしたちが神の国で永遠の命に生かされることを教えたいのです。ここでなさったしるしは、神の国を先取りして人々に映し出しました。

主イエスは少年が持っていたパンと魚を、座っている人々に分け与えられました。彼らが満たされたとき、残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになりました。地上の見積もりの通りとはならず、少年が持っていたパン五つと魚二匹は、五千人を満たして、溢れ出て、さらに余りあるものとなったのです。

天の父なる神さまは、そのようにわたくしたちが神の国で豊かに用いられるべく地上の命を与えられていると御覧です。たとえ自らに価値を見出せなくても、足りない者だと見えたとしても、そのわたくしたちを、神の国において、わたくしたちの見積もりをはるかに越えて活かしてくださるのです。永遠の命に生かされるわたくしたちは、神さまの喜びに万人が与るために用いられます。この喜びの場へと主イエスはわたくしたちを引き出しておられるのです。