2014年6月8日日曜日

「失って得る神からの恵み」ヨハネによる福音書 16:1-15

主イエスが都エルサレムで弟子たちと夕食をとっておられたときのことです。十字架につけられる前の晩、いわゆる「最後の晩餐」の席で、主イエスは弟子たちに話しかけ、これからの弟子たちの歩みを励ましました。

あなたがたは「イエスの弟子である、僕(しもべ)である」ということで、世から憎まれるかもしれない。けれども世はその前にわたしイエスを憎んでいたのだ。そしてわたしは世の支配者に裁かれ、十字架で死ぬ。わたしはあなたがたと一緒にいなくなり、去って行く。
弟子たちはこれを聞き、悲しくて仕方がありませんでした。

続けて主イエスは言いました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る(7)」。

弟子たちは聞いて解ったわけではありません。けれどもこうおっしゃったのです。そして、主イエスが弟子たちのもとを去って行くことが、弟子たちのためになるという。
これまで弟子たちは、目で見える姿で、手で触れられるところに、主イエスがいるのが当たり前でした。主イエスが十字架で死んでゆかれ、彼らは当たり前のことを失います。それは己に死ぬということです。けれども主イエスはそれが彼らのためになると言う。

弟子たちはこれから、自分を何者だと言うのでしょうか。主イエスが去った後も、主イエスの弟子であり僕であると告白するなら、それは独りでその状況に向き合うことになります。主イエスはもうそこにいないからです。

けれどもその告白において、「弁護者」が側に来ておられることを知る、と主イエスは言います。そしてこの弁護者がわたくしたちに立つべきところを得させる。迫害され立場を失っても、なお立つべきところがある。それは、十字架で死んだ主イエスを復活させた神さまがお与えになる、永遠の命です。死を越えて与えられる永遠の命にわたくしたちも生かされるのです。

これまで弟子たちは主イエスの側にいながらも、ただ外から眺めていたに過ぎませんでした。主イエスの十字架の死もそうです。けれどもこれが自分を救うための死であったことを、主イエスの復活を証しする真理の霊がわたくしたちに悟らせます。そして、主イエスを復活させた神さまが死んだわたくしたちをも復活させ、永遠の命を与えてくださると告白することにおいて、わたくしたちもいよいよ命の道を進ませて頂けるのです。