2014年4月13日日曜日

「永遠の命に至る水」ヨハネによる福音書 4:1-15

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」。その願いは、わたくしたちにも共通します。わたくしたちも、からからに渇いたこの心を何とかしたいと願い、しかし何とも出来ない負の現実に打ちのめされ、言葉を失う。そこでもし、渇くことがないようになるなら。その水を願うのです。

女の渇きは、彼女の事情によります。五人の男と結婚・離婚を繰り返し、今共に暮らす相手は、正式の夫ではない(18)。当時の水汲みは主に女性の仕事でした。ですがこの女は町中の井戸で水を汲めません。他の女たちに「否」を突き付けられているからです。町外れのヤコブの井戸も、他の女たちが汲みに来る時間は避けて、あつく太陽が照りつける真昼にしか、この女は水を汲みに来ることが出来なかった。

わたくしたちが自らに「否」を突き付けられるのは、何も自分がしたことばかりによるわけではありません。不治の病や先天的な病を負っていることを知った時、わたくしたちは少なからず、自分という存在に対して「否」を突き付けられた思いになるのではないでしょうか。また自らの行いと関係がない分、かえって納得できない不条理な「否」として突き付けられます。

女は「渇くことがない水」を求めましたが、主イエスは「また渇く」と言われました。女が願うようなものは、すぐまた渇く。そのようなうたい文句の代物は、世に数知れません。しかしそれによって満たされるのは、一時でしかない。自らに「否」を突き付けられ、渇きを覚えながらも、どうしようもなく立ち尽くしているのが、この女であり、わたくしたちなのです。

その女に、主イエスは「水を飲ませてください」と頼みました。この女に「永遠の命に至る水がわき出る」はずだからです。そんなものを自分に与えられているとは、女は思いません。わたくしたちもそうでしょう。しかしそれほどまでに、わたくしたちの命の向かう方向が、見失われている。その生きた水を、わたくしたちに得させるため、主イエスは十字架で死なねばなりませんでした。わたくしたちの命を、神さまのもとに買い戻し、永遠の命に至るものとするために。

その主イエスを、神さまは死人の中から復活させて、永遠の命をわたくしたちに与える御意志を明らかにされました。それは造り主による、造られたわたくしたちへの「然り」「良し」を告げるものです。そしてキリストに結ばれてわたくしたちの命が、永遠の命に至ることを、礼拝においてわたくしたちに宣言しておられるのです。