2015年1月11日日曜日

「陰府にまで降られた神」ヨハネによる福音書 11:28-57

病気で死んでしまったラザロ、死んでもう四日もたつラザロを主イエスは復活させて、墓から出て来させました。死んだラザロの復活は、彼の死を悲しむ誰の心にもそれまでなかったことです。たしかに、ラザロがまだ死んでなかったら、これまで数々の病を癒した主イエスによって彼を癒せたかもしれない。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」姉妹マリアもそう思いました。ただ、もう手遅れであり、死という事実は誰の目にも変わらぬ事実として横たわったのです。

ところが、この死んだラザロを主イエスは復活させました。そしてこのラザロを復活させることによって、主イエスは栄光を受けられたのです。主イエスは先立って言っていました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである(4)」。

主イエスが受けた栄光、それはこの方が天から遣わされた方であり(42)、神さまは主イエスを遣わすことによって世をお救いになるということです(27)。ここで主イエスはラザロを復活させて、命じていのちを現れさせることができるという、造り主としての栄光を現されたのです。

一方、主イエスがベタニアでこのしるしを行ってその栄光を現されたことにより、ユダヤの最高法院は主イエスを殺そうとたくらみはじめます(53)。やがてユダヤ人の過越祭がやって来ます。その祭の前日に主イエスは十字架で処刑されました。天から遣わされた神の子は十字架で死ななければなりませんでした。神の栄光を受けた御子は死んで葬られ、陰府にまで降られなければならなかったのです。

ですがこのことは、陰府にまで神の栄光が現されたと告げる出来事となりました。それは神さまが主イエスを死者の中から復活させたからです。神さまはいのちをもたらす造り主としての働きをそこにまで及ぼされ、救いの御手を差し伸べられました。このことは、もはやどこにあっても、死んだとしても、そこに造り主として主はおられ、ご自身の栄光を現わすことがおできになるということの証しです。主イエスは、わたくしたちが死んでもなお命の造り主として共におり、死を越えて意味を持つ言葉を掛け、わたしたちを生かすと宣言しているのです。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます(詩篇139)」。