2015年8月23日日曜日

「死の陰の地に射した光」マタイによる福音書4:12-17


主(しゅ)イエスはガリラヤ地方(ちほう)へ帰(かえ)って「悔(く)い改(あら)めよ、天(てん)の国(くに)は近(ちか)づいた」と宣(の)べ伝(つた)えました。この呼(よ)び掛(か)けは、何(なに)か漠然(ばくぜん)とした言葉(ことば)が漠然(ばくぜん)とした相手(あいて)に向(む)けられているのではありません。わたくしたちの主(しゅ)イエスが、「あなたは神(かみ)に立(た)ち帰(かえ)れ」と呼(よ)び掛(か)けています。
それは、主(しゅ)イエスが、わたくしたちの生(せい)をあきらめていないからです。造(つく)り主(ぬし)なる神(かみ)さまと共(とも)にある命(いのち)をあきらめていないからです。主(しゅ)イエスはわたくしたちを、死(し)に向(む)かって終(お)わる生(せい)から、死(し)を越(こ)えて造(つく)り主(ぬし)と共(とも)にある生(せい)へと生(い)かします。わたくしたちを天(てん)の国(くに)で永遠(えいえん)の命(いのち)に生(い)かすことを、主(しゅ)イエスはあきらめておられません。
この主(しゅ)イエスは、十字架(じゅうじか)の死(し)において、わたくしたちの命(いのち)の代価(だいか)を支払(しはら)った方(かた)です。「人(ひと)の子(こ)が、仕(つか)えられるためではなく仕(つか)えるために、また、多(おお)くの人(ひと)の身代金(みのしろきん)として自分(じぶん)の命(いのち)を献(ささ)げるために来(き)た(20:28)」。そう主(しゅ)イエスはご自身(じしん)を証(あか)しします。この主(しゅ)イエスが、わたくしたちの命(いのち)をあきらめていない。
「悔(く)い改(あらた)めよ」との命令(めいれい)は、この思(おも)いから語(かた)られています。わたくしたちの命(いのち)の造(つく)り主(ぬし)、天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは、わたくしたちをご自身(じしん)の前(まえ)に、ご自身(じしん)と共(とも)に、永遠(えいえん)に生(い)かそうとしておられる。この父(ちち)なる神(かみ)さまの思(おも)いに立(た)ち帰(かえ)るように。わたくしたちが死(し)で終(おわ)わる生(せい)に埋没(まいぼつ)することから、主(しゅ)イエスは永遠(えいえん)の命(いのち)へとわたくしたちを引(ひ)き出(だ)しておられるのです。
ただそのわたくしたちも、神(かみ)さまの思(おも)いからすぐに離(はな)れてしまいます。暗闇(くらやみ)に住(す)み、死(し)の陰(かげ)の地(ち)に住(す)むほかない、死(し)んで終(おわ)わりの命(いのち)に陥(おちい)ってしまう。ですからわたくしたちは、この命(いのち)を造(つく)った神(かみ)さまの思(おも)いを、なおも知(し)ることが必要(ひつよう)です。繰(く)り返(かえ)し聞(き)かされることが、何(なん)としても必要(ひつよう)です。主(しゅ)イエスはわたくしたちの命(いのち)をあきらめておられません。その主(しゅ)イエスがわたくしたちを礼拝(れいはい)へと招(まね)き、ご自身(じしん)の十字架(じゅうじか)での死(し)と、死(し)からの復活(ふっかつ)を宣(の)べ伝(つた)えておられます。わたくしたちの生(せい)は、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)の光(ひかり)の中(なか)に入(い)れられています。この事実(じじつ)を聞(き)き続(つづ)ける幸(さいわ)いを、主(しゅ)イエスはご自身(じしん)におこされた神(かみ)のご支配(しはい)を宣(の)べ伝(つた)え、わたくしたちに与(あた)えておられるのです。