2015年8月16日日曜日

「あなたの神を拝み仕えよ」マタイによる福音書4:1-11


主(しゅ)イエスは荒(あ)れ野(の)で悪魔(あくま)から誘惑(ゆうわく)を受(う)けました。「神(かみ)の子(こ)なら、これらの石(いし)がパンになるように命(めい)じたらどうだ」と。これに対(たい)し主(しゅ)イエスは言(い)います。「『人(ひと)はパンだけで生(い)きるものではない。神(かみ)の口(くち)から出(で)る一つ一つの言葉(ことば)で生(い)きる』(申命記8:3)と書(か)いてある」と。しかしこのような考(かんが)えは何(なに)か熱狂(ねっきょう)じみて、理想(りそう)を追(お)いかけ過(す)ぎのようにわたくしたちは見(み)えるかもしれません。
ただこれらは、死(し)を前(まえ)にしたわたくしたちにとって、現実(げんじつ)のこととして聞(き)こえてきます。明日(あす)どうなるかなど判(わか)らない命(いのち)を生(い)きるわたくしたちにとっては、パンだけではなく、神(かみ)の言葉(ことば)こそが必要(ひつよう)です。
主(しゅ)イエスもそうでした。十字架(じゅうじか)を前(まえ)にした晩(ばん)、主(しゅ)イエスはゲツセマネで天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまに祈(いの)りました。そこで求(もと)めたのは、神(かみ)さまの言葉(ことば)です。父(ちち)なる神(かみ)さまの御心(みこころ)です。「父(ちち)よ、できることなら、この杯(さかずき)をわたしから過(す)ぎ去(さ)らせてください。しかし、わたしの願(ねが)いどおりではなく、御心(みこころ)のままに(26:39)」。たしかに、このときもわたくしたちはお腹(なか)が減(へ)るでしょうし、パンを食(た)べねば始(はじ)まらないことでしょう。ですがそこで食(た)べて満(み)たされても、満足(まんぞく)しません。生(い)きるために生(い)きる者(もの)にはパンが必要(ひつよう)ですが、死(し)ぬために生(い)きる者(もの)には、神(かみ)の言葉(ことば)が必要(ひつよう)です。わたくしたちの命(いのち)となる神(かみ)さまの言葉(ことば)が、この自分(じぶん)の死(し)の先(さき)からやって来(く)る必要(ひつよう)があります。
そのわたくしたちのために、神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを死者(ししゃ)の中(なか)から復活(ふっかつ)させ、わたくしたちが死(し)を越(こ)えて与(あずか)る命(いのち)を明(あきら)らかにしてくださいました。天(てん)の父(ちち)なる神(かみ)さまは、主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)によって、わたくしたちの死(し)の先(さき)からこの身(み)へと、神(かみ)の言葉(ことば)を与(あたえ)えてくださったのです。
わたくしたちの死(し)の先(さき)に神(かみ)さまが、希望(きぼう)を備(そな)えておられます。主(しゅ)イエスの復活(ふっかつ)において示(しめ)された、命(いのち)の希望(きぼう)です。この希望(きぼう)に生(い)かす神(かみ)の言葉(ことば)として、主(しゅ)イエスはわたくしたちの死(し)を越(こ)えてわたくしたちと共(とも)におられます。この言葉(ことば)によって神(かみ)さまは主(しゅ)イエス・キリストと共(とも)にある新(あたら)しい命(いのち)をこのところから始(はじ)めてくださるのです。