2015年8月2日日曜日

「天の国が近づいた」マタイによる福音書 3:1-12


洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネは主(しゅ)イエスを指(さ)し示(しめ)します。「わたしは、その履物(はきもの)をお脱(ぬ)がせする値打(ねう)ちもない。その方(かた)は、聖(せい)霊(れい)と火(ひ)であなたたちに洗礼(せんれい)をお授(さず)けになる」。ヨハネが、後(あと)から来(く)る主(しゅ)イエスの履物(はきもの)をお脱(ぬ)がせする値打(ねう)ちもないのなら、ヨハネのではなく主(しゅ)イエスの洗礼(せんれい)を受(う)けた方(ほう)が、値打(ねう)ちがある、ということになり、その方(ほう)がよいではないかと思(おも)います。しかしヨハネは問(と)います。「差(さ)し迫(せま)った神(かみ)の怒(いか)りを免(まぬか)れると、だれが教(おし)えたのか」と。種(たね)ともみ殻(がら)を選(え)り分(わ)け、もみ殻(がら)は消(き)えることのない火(ひ)で焼(や)き払(はら)われる。その洗礼(せんれい)にあなたは耐(た)えられるのか。だから、後(あと)から来(く)るその主(しゅ)を迎(むか)えられるよう、主(しゅ)の道(みち)をまっすぐにせよ、とヨハネは荒(あ)れ野(の)で叫(さけ)びます。
わたくしたちには、それぞれに安(あん)住(じゅう)の地(ち)があります。それを意識(いしき)や言(こと)葉(ば)にしていようがしていまいが、暗黙(あんもく)のうちに、わたくしたちは安住(あんじゅう)の地(ち)に住(す)んでいます。ヨハネの問(と)いは、わたくしたちがそれで良(よ)いのか、という指摘(してき)として聞(き)こえます。そしてまた、わたくしたちは、たとえ教会(きょうかい)で洗礼(せんれい)を受(う)けた者(もの)であっても、礼拝(れいはい)をながく守(まも)ってきた者(もの)であっても、誰(だれ)もが自(みずか)らの死(し)を前(まえ)にして、自分(じぶん)を問(と)うのではないでしょうか。本当(ほんとう)に自分(じぶん)はこれで良(よ)いのか、と。自分(じぶん)が安住(あんじゅう)の地(ち)としてこれまで問(と)うこともせずに生(い)きて来(き)たそのところにある自分(じぶん)。この自分(じぶん)が、天(てん)の国(くに)に入(はい)れるのか。
そのわたくしたちに、神(かみ)さまは主(しゅ)イエス・キリストを与(あた)えました。神(かみ)さまは十字架(じゅうじか)で死(し)んだ主(しゅ)イエスを復活(ふっかつ)させ、この復活(ふっかつ)を宣(の)べ伝(つた)えることを通(とお)して、死(し)から命(いのち)へと向(む)かう命(いのち)の根拠(こんきょ)をわたくしたちに据(す)えておられます。
天(てん)の国(くに)を待(ま)ち望(のぞ)み、わたくしたちに近(ちか)づいた天(てん)の国(くに)を受(う)け入(い)れることは、神(かみ)さまによる第(だい)二の創造(そうぞう)の業(わざ)にわたくしたちが与(あずか)らせられることです。死(し)から命(いのち)へと復活(ふっかつ)させられることです。この身(み)を新(あら)たに創造(そうぞう)する神(かみ)がおられます。主(しゅ)イエスと共(とも)にあるわたくしたちの死(し)は、その再創造(さいそうぞう)の業(わざ)に与(あずか)るものです。神(かみ)さまは聖霊(せいれい)によってわたくしたちに主(しゅ)イエスのご支配(しはい)を深(ふか)め、広(ひろ)め、まことに主(しゅ)を礼拝(れいはい)する僕(しもべ)の歩(あゆ)みを、新(あら)たに始(はじ)めさせてくださいます。