2011年10月9日日曜日

「もう泣かなくともよい」ルカによる福音書 7:11-17

わたくしたちは、近しい者が死の床につく時、そこに及ぼされる死という圧倒的な闇の力を前にして、自らの力のなさを覚えます。たしかに、死を越える命の道があるとわたくしたちは信じます。ですがその自分の言葉に、力のなさを覚えるのです。けれどもそこに、なおその死に立ち向かい、死に勝利された主イエス・キリストがおられます。主イエスは死を越える命の道を与えてくださいました。

この道がないようにして死んでいくということを、主イエスは黙って見てはおられません。わたくしたちの死は、滅びで終わるのではありません。主イエスが御言葉を掛けてくだされば、命の息吹を注いでくだされば、わたくしたちは生き返るのです。死が無くなるのではありませんが、死を越える命の道を、主イエスはわたくしたちにお与えになった。そのことを御自身、死者の中から復活されたことで、わたくしたちにお示しになりました。

主イエスはわたくしたちのところへ来ておっしゃいます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。たとえ死んでも、わたくしたちは主イエスとともにあり、この方のものとされているのです。主イエスが御言葉を掛けてくださるなら、わたくしたちは命を得て、生き返らせられる。「死人は起き上がってものを言い始めた」。

死が滅びで終わりとする者の傍らにあって、わたくしたちが復活の希望を持ち続けられるのは、なおそこにおいて、わたくしたちを生かしてくださっている主イエスがおられるからです。わたくしたちがこの御方によって生かされている。その事実は変わることがありません。その命の源であられる主イエスが、死者にまで声を届かせることがお出来になる。そして主イエスは、「もう泣かなくともよい、わたしは再び生き返らせるのだ」という力強い御意志を実現してくださいます。死者にさえ命の息吹を吹き込んでくださるのです。

この復活の希望の内にあるわたくしたちの姿を、詩編は次のように語ります。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる(詩一二六・五)」。終わりの日の復活のとき、喜びの歌とともに刈り入れることになるのです。死の床の傍らにありながらも、主イエスの御声が響き渡る日が与えられるのを信頼し、希望の内に近しい者と寄り添ってまいりましょう。