2011年8月28日日曜日

「満ち溢れる幸い」ルカによる福音書 6:20-26

主イエスは弟子たちの姿を御覧になっておっしゃいました、「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」。貧しさが幸いかと問われたなら、わたくしたちはそうではないと思うでしょう。弟子たちにとりましても、貧しさは損失や苦しみでしかなかったのです。
けれども、主イエスの目に映るのは、神がその弟子たちを愛してくださっているということでした。貧しく、寂しく、相手にされない。そうであっても、神はあなたを愛している。「神の国はあなたがたのものである」のだ、と。弟子たちが、またわたくしたちが、人々から軽蔑されても、神は愛してくださっている。たとえ経済的に富んでいなくても、それが何か、神からの愛が乏しいというわけではないのです。「あなたがたの渇きを、失ったものを、神が満たしてくださるから幸いだ」と主イエスはおっしゃる。その幸いを主イエスはこの弟子たちの姿に御覧になっているのです。
この、主イエスが御覧になっていた神からの幸いが、たしかにわたくしたちに与えられていることを知る出来事を、神はおこしてくださいました。それが、主イエス・キリストの復活です。天の父なる神は、十字架で死なれた御子イエスを復活させて、神がわたくしたちを懐に抱き、受け入れておられるということを明らかにしてくださいました。「あなたがたは幸いだ」と主イエスが御覧になっていた幸いに与らせて頂いていることを、神は明らかにしてくださったのです。
わたくしたちはいまだ道すがらにあり、主イエスに見出されながらも、自分の現実が幸いであるとは見えなかったかもしれません。けれども主イエスはずっと御覧になっています。天の父なる神が、わたくしたちに御手を差し伸べて、懐に抱いてくださっていることを。その、主イエスが見出してくださっている幸いに、わたくしたちは与らせていただくのです。それが、わたくしたちに与えられた、神を礼拝する歩みです。主イエスは御覧になっている幸いをわたくしたちに仰ぎ見させてくださいます。御言葉を通して御自身の復活を示し、神の御手の内へとわたくしたちを導いてくださいます。わたくしたちに満たされている神からの幸いが、決して失われないように、わたくしたちに目を上げて語りかけてくださっているのです。