2011年4月17日日曜日

「喜び・祈り・感謝」テサロニケの信徒への手紙一 5:12-28

喜ぶこと、祈ること、感謝すること。これらは子どもに求めれば、すぐにでもできそうなことです。わたくしたちにも難しいことではなく、単純で素朴な、すぐにできそうなことだと思います。

けれどもこれが、「いつも、絶えず、どんなことにも」と言われればどうでしょうか。たしかに「いつも、絶えず、どんなことにも」そうでありたいと願います。けれどもそうできなかった弱さを、省みて覚えます。わたくしたちには身の周りや自分自身の内に、喜べない悲しみがあり、感謝し得ない不満があった。

喜べ祈れ感謝せよとは、子どもでもできる単純で素朴なものですが「いつも、絶えず、どんなことにも」そうすることを困難にする何らかの負い目を、わたくしたちは自身の内に抱えている。そのことをわたくしたちは認めざるを得ません。

しかしまさにそのわたくしたちのために、神は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい」という御言葉を与えてくださいました。そして、主イエス・キリストが再び来られる日に、神はわたくしたちにこれを全うしてくださるのです。

御言葉は続けて語ります。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。神が望んでいる。それは、神がそうする御意志をお持ちだということです。神御自身、わたくしたちが「いつも喜んで、絶えず祈り、どんなことにも感謝し」ていくことを実現してくださるのだ、とわたくしたちに告げるのです。

神はその御意志によってイエス・キリストを死者の中から復活させられました。そしてこの神が御自身の意志によりわたくしたちをして「いつも喜んで、絶えず祈り、どんなことにも感謝し」ていくことを全うしてくださる。この力強い御手の内にわたくしたちは置かれているのだから、と御言葉はわたくしたちに勧めるのです。

この、神の揺るぎない主導権のもとにあって、祈りの言葉が続けられています。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」。わたくしたちの現実におきましては、高められながらしかし地上の歩みとの間に隔たりを覚えるかもしれません。しかし神御自身が、力強い御手をもって、このわたくしたちを非のうちどころの無い者としてくださいます。主イエス・キリストを復活させた神がわたくしたちのうちに成し遂げてくださるという希望にあって、神はわたくしたちを「いつも喜んで、絶えず祈り、どんなことにも感謝し」て歩ませてくださるのです。