2011年3月27日日曜日

「神の愛の実り」テサロニケの信徒への手紙一 4:9-12

パウロは遠方からテサロニケの教会の様子を知り、彼らの信仰を喜びます。そしてパウロは手紙を送り、彼らが実践している兄弟愛をなおいっそう励むよう勧めます。

ところがこの勧めは次のとおり続きます。「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。そうすれば、外部の人々に対して品位をもって歩み、だれにも迷惑をかけないで済むでしょう」。パウロがこのところで兄弟愛の目指すこととしてあげているのは、まるで相手と関わらず、自己完結した生き方を全うするかのようです。そこにおいては相手に委ねるということ、こちらが身を差し出すということもしないのでしょうか。彼が勧める兄弟愛とはどういうことなのでしょうか。

この勧めの背景に、彼らの終末待望が挙げられます。主イエスがわたくしたちのところに来られ、その復活に与り、永遠に主と共にいる者とされる。神がわたくしたちの命を完成される、その主の日がやって来る。当時の者たちは、これが間近に迫ってきているという意識が高かったのです。ですけれども、そのような差し迫った思いにある一方で、その者たちの中には、かえって怠惰な歩みをする者が多くいたのでした。

「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、今日わたしはリンゴの木を植える」と宗教改革者のマルティン・ルターが語ったと言われますが、テサロニケの者たちはその逆で、もう終わりの日が近いのなら仕事など止めてしまおうという状態にあったのです。

リンゴの木を植えるのは実りを求めてのことですが、その実りが与えられるのは随分先のことです。それほど先にならなければ実りを得られないのに、明日主イエスが来られて終わりの日となるのであれば、実りにありつけないリンゴの木を植えるのは無駄な労働だと思えてまいります。

しかし、御言葉が求めていますのは、このリンゴの木を植え続けることです。たとえ主イエスが明日にでも来られるとしても、委ねられている働きに今日励むことです。それは、その働きに生きるわたくしたちを神が喜んでくださっているからです。そしてわたくしたちが終わりの日に復活させられるのは、神の御言葉に召し出されたわたくしたちであるからです。そこにおいて神は実りに与らせてくださいます。

神がわたくしたちに兄弟愛に励むよう求められますのは、神から与えられている召命に応えるためでありました。兄弟を愛することを通して、落ち着いた生活をし、神から与えられた自分の仕事に励み、自分の手で働いていく。相手に自らを差し出してお委ねするのは、わたくしたちが神からの召命に立ち続け、来るべき終わりの日に神からの実りに与るためでありました。神から与えられている召命に応え続けるためでした。その、神から与えられた召命に生きるために、神はわたくしたちを主イエスの十字架によって贖ってくださいました。買い戻してくださったのでした。そしてこの神からの召しになおこれからも生きるために、神は御言葉を語りかけ聖霊をわたくしたちに降してくださっているのです。