2011年2月13日日曜日

「御自身を与える神」テサロニケの信徒への手紙一 2:9-12

生まれてきた幼子は成長とともに目で物を追いかけ、父親を見つめます。父の眼差しを求めるのです。眼差しを受けて、幼子は安心します。そして父もまた、子と眼差しを交わし合うのが喜びです。目を合わせてくれなければ悲しくなりますが、それでもう、父が子に目を向けないのではありません。なんとかして子を振り向かせようと父は力を尽くすのです。

天の父なる神もまた、わたくしたちに眼差しを向けておられます。そしてわたくしたちがこの御方を仰ぎ見て歩むことを喜んでおられます。わたくしたち人間をお造りになった神はわたくしたちに御目を注ぎ、御心に適うようにと、すべてを尽くして導いておられるのです。
ところが最初の人アダムは神ではなく他の眼差しに心を奪われてしまいます。蛇にだまされ、女の誘いに釣られてしまう。結果、彼は神の眼差しを正面から受け止められなくなります。アダムはそれまで神の眼差しのもとで安心して歩んでいましたが、今やその眼差しが怖くなり、神の顔を避けて隠れます。

しかし神は、変わらず眼差しをアダムに向け、呼び掛けられるのでした。「お前はどこにいるのか」と。神はわたくしたちをお造りになって、それで放っておかれるというのではありません。御目を注ぎ、わたくしたちがおるべきところへとおらせ、この御方を仰ぎ見ることを望んでおられるのです(創世記二〜三)。

この神についてパウロは証します。「御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます」。神はわたくしたちを招いておられる。神はすべてを差し出して、御自身をお与えになろうとされている。わたくしたちがこの御方を仰ぎ見ることを望んでおられ、そのために御目を注ぎ続けておられる。

しかも神は、わたくしたちが神の御元へと立ち帰ることを求めて、神の御子イエス・キリストをわたくしたちに差し出してくださいました。天の父なる神は、わたくしたちの歩みの中へと入り込んできてくださり、わたくしたちを御自身のもとへと招いてくださったのです。

しかし人間はこの神の招きを受け入れず、御子を十字架で殺したのでした。その死は、わたくしたちが神の顔を避けてきた結果でした。神の眼差しを真正面から受け止めることから逃げた代償でした。御子はわたくしたちがこの父なる神の眼差しの下に新たに生きるための尊い犠牲となったのでした。そして神は死者の中から御子を復活させになり、この御子の命に生きるようにと、御言葉をもってわたくしたちに命の息吹を注いでおられます。

子が父と向き合うようにして、わたくしたちが父なる神と向き合って、この御方の眼差しの下に生きること。この眼差しのもとに立ち帰るようにと、父なる神が御子イエス・キリストを与えてくださった。神は御自身を差し出してくださり、父なる神の眼差しのもとにあって、死を超えてわたくしたちを生かしてくださるのです。